鈴木将浩のまったり活動ブログ

上ノ郷城跡、日本史専攻として。

実は大学生では文学部人文学科で日本史を専攻していました。

大学生の時に行ったことはありましたが、10年以上前で記憶からぶっ飛んでいるので、改めて行こうと思い立って上ノ郷城跡へ行ってきました。

上ノ郷城跡に関する情報は蒲郡市のホームページより

上ノ郷城跡を愛する会
「上ノ郷城跡を愛する会」は、平成20年4月、蒲郡市を代表する史跡・上ノ郷城跡(かみのごうじょうせき)の保存と活用の方法を考えるために結成されました。現在、会員は15名です。地元神ノ郷町の人や市内在住の歴史を愛する人などで構成されており、定期的に会合を開いて、今後の取り組みについて話し合いを行っています。

上ノ郷城跡について
上ノ郷城跡は、戦国時代に鵜殿氏が本拠地とした城です。
城といっても、一般に想像される名古屋城や姫路城のような天守閣・石垣・しっくい壁などを備えたものではなく、おもに土塁(土を盛って造られた壁)と空堀からなる構造で、城の建物に瓦は使われていなかったと考えられています。
名古屋城・姫路城など江戸時代に造られた城を「近世城郭」、それより前の戦国時代に造られた上ノ郷城などを「中世城郭」と言います。上ノ郷城跡の主郭(城の中心部)からは三河湾が一望できます。 城の東側半分を抱えるように流れる兼京川(かねきょうがわ)は、流路が人為的に変えられたと推測されており、防御用の堀としての機能を持っています。
また城の西南にある熊ヶ池は、かつては城の一番外側に位置する水掘であったと地元では言い伝えられています。

鵜殿氏とは?
上ノ郷城の城主・鵜殿氏は、紀伊半島の熊野地方から現在の蒲郡の地へ渡ってきた一族です。鵜殿氏は上ノ郷のほかにも、下ノ郷・不相(府相)・柏原(すべて蒲郡市内)などへ一族を配置し、あたりを支配していました。
鵜殿氏の初代・鵜殿長善は、15世紀後半に活躍した人物です。鵜殿宗家である上ノ郷家の当主は、長善-長将-長持-長照と続きました。16世紀前半の武将・鵜殿長持は、駿河の戦国大名・今川義元の妹を妻にしていました。鵜殿氏は三河における今川勢力の一員として、この地域で高い地位にあったと考えられています。また、現在、蒲郡市内の上本町にある長存寺は、下ノ郷鵜殿家の菩提寺だった寺院で、境内には一族のお墓があります。

徳川家康の上ノ郷城攻め
永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で織田信長が今川義元を討ち取った後、それまで今川氏につかえていた松平元康(のちの徳川家康)は岡崎城を拠点として独立を図りました。三河国は松平方と今川方に分かれて互いに争うようになりましたが、そのような状況下、鵜殿長照は、今川方として松平氏と戦うことを決意します。三河の統一をもくろむ松平元康にとって、三河における今川勢力の代表ともいえる鵜殿氏は、ぜひとも倒さなくてはならない相手でした。
そして永禄5年、松平元康の勢力が攻めてきたことによって、上ノ郷城合戦が起こりました。城攻めは、当初、堅い守りにさえぎられて、松平方に大きな損害が出ました。その後、松平元康自身が出馬し、上ノ郷城北西の名取山に陣を構え、再び城を攻めました。そして永禄5年2月4日、夜陰に乗じて元康配下の忍者が上ノ郷城内に忍びこんで火をつけ、城中が混乱したところを落としたと伝えられています。
城主の鵜殿長照は討ち死にし、二人の子は生け捕りにされ、岡崎城へ連れていかれました。永禄4年から8年にかけて、松平元康は三河を統一していく過程で、何度も合戦を行いました。その戦いにうち勝って、強固な地盤を三河に築いたわけですが、上ノ郷城攻めとその勝利は、まだ若かった元康にとって、今後の命運をにぎる重要な一局面であったといえるでしょう。

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