鈴木将浩のまったり活動ブログ

「わすれじの碑」慰霊祭、三河地震犠牲者を追悼。

形原神社で行われた、「わすれじの碑」慰霊祭に参加いたしました。

昭和20年1月13日未明に発生した三河地震で、形原では200名を超える尊い命が失われました。ちょうど今から75年前の出来事で、私は当然生まれていませんし、徐々に当時の様子が風化してしまう中で、平成24年からこの慰霊祭は行われているそうです。

昭和19年の東南海地震の陰に隠れがちですが、三河地震は震源が浅く、かつマグニチュード6.8と非常に大規模の地震。現在の震度でいうと震度7で、西尾市を中心に大きな被害を及ぼしました。

wikipediaの情報から、被害状況について少々。

震源が浅く、マグニチュード 6.8と規模が比較的大きかったにも関わらず、被害報告はごく僅かしか残されていないために、現在に至ってもこの地震について詳しいことは判っていない。しかし震源域の三河地域では、昭和東南海地震よりも多くの死者が記録されており、死者1,180人、行方不明者1,126人、負傷者3,866人。家屋の全壊は7,221戸、半壊1万6,555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4,311戸とされる。なお、近年になって地震被害を報告した当時の帝国議会秘密会の速記録集が見つかっており、これによれば愛知県の幡豆郡と碧海郡で死者2,652人に達したという。一方、碧海郡明治村の明治航空基地では顕著な被害は記録されていない。

死者が多かったのは幡豆郡福地村(現・西尾市)234名、西尾町、三和村、横須賀村275名(以上現・西尾市)、碧海郡桜井町(現・安城市)、明治村325名(現・西尾市、安城市、碧南市)、宝飯郡形原町233名(現・蒲郡市)などで、平坂町(現・西尾市)では堤防が4メートル沈下して79ヘクタールの水田が海水に没したほか、矢作古川周辺では液状化現象も見られ。前述の被害が甚大な地区では、どの家族にも死者が出るほどの高い死亡率だったと言う。なお、震源を離れた葉栗郡や中島郡、名古屋市から一宮市付近でも一部で家屋の倒壊があった。また、三河湾で小規模な津波の発生が確認されている。

局地的な被害はほかの直下型地震よりも深刻であった。被害状況は集落ごとに大きな差があり、ある集落は壊滅している一方で隣の集落はほとんど被害がないという状況も随所で見られたと言われている。37日前に発生した昭和東南海地震により構造上重要な「ほぞ」が外れた半壊状態の家屋が、物資及び人手不足から修理されず、新たな地震動により全壊に至った可能性が指摘されている。また、三州瓦の産地に近いことから、耐震性に欠ける瓦葺きの家屋が多く存在していた事も家屋の倒壊を促進したと考えられている。1日に40~50回の余震が発生していたため、家が無事な場合でも多くの被災者は屋内に戻ることが出来ない状態であった。

地震が発生した当時は太平洋戦争中であり、当時の政府当局によって国民の戦意を低下させないことや軍需工場の被害を伏せるため(敵への情報流出も作戦へ影響する)報道管制が敷かれ、地震発生の報道はなされたものの被害規模やその後の状況などは多くが伏せられた。ただし、地元でもある中部日本新聞(現・中日新聞)は比較的多い報道を行なったほか、名古屋大学教授らからなる震害地学術調査団を現地に派遣している。 地震被害の報道がなされなかったことで、近隣地域からの救護団も無く更に、地震直後の行政による組織的な救援活動が実施されたとの記録は残っていない。しかし、明治航空基地や海軍基地の軍関係者による小規模な救助及び復旧活動が行われたとの証言が残っている。地震発生から2カ月後から行政(県)の手配による「工作隊」が組織され復旧活動が進められた。

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